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2013年11月15日

由来

午後から晴れました!
秋のお天気は変わりやすいですね

さて、ほぼ毎日、西陣の街を営業・施術で歩き廻っていますが
どんな謂れで「西陣」または「西陣織」ができたのか
はっきり説明できません!

それではアカンやろ!
「西陣」を冠に屋号を拝しているだけに
聞かれて答えられんでは恥ずかしい

で、少し?詳しく調べてみました

西陣織とは京都西陣の地で生産される織物の総称である
由来


西陣という地名は,応仁・文明の乱(1467~77)の西軍の
山名宗全(やまなそうぜん)の陣地に由来し邸宅があった
山名町(堀川通今出川上る西入)とともに乱の名残を
とどめている数少ない地名であります
由来


地名としての初見は「蔭凉軒日録」(いんりょうけんにちろく)
文明19(1487)年正月24日、応仁の乱後10年で
西陣が地名化していたことがわかります
江戸時代には北は今宮神社御旅所・南は一条通または中立売通
東は堀川通・西は七本松通にわたる一帯を西陣と呼んでいました

現在,西陣郵便局・西陣中央小学校など「西陣」の名を
冠する施設はいくつかあります、,西陣という行政地名はありません
今では西陣織関連の業者は、北は鷹峯・南は丸太町通
東は烏丸通・西は御室附近にまで広がっています
由来


西陣織のはじまりは、平安初期の律令制のもとで大蔵省に
属した織部司(おりべのつかさ)が最高級の織物を生産していました
しかし、律令体制の崩壊にともなって平安末期あたりから
朝廷は工房を維持することが難しくなっていきました

そこで織工達は大舎人町(おおとねりちょう)
現在の猪熊通下長者町附近に移り住み
宋の綾織技法を模倣した唐綾を貴族の装飾用に製作しました
これが民業による製織のはじまりです
南北朝期に成立した「庭訓往来」(ていきんおうらい)では「大舎人綾」や
「大宮絹」が京の名産として有名であったことされています

応仁・文明の乱の間、大舎人町の織工達は
堺(大阪府)などに逃れていました
乱が終結すると京都に戻り東軍本陣跡の
白雲村(現在の新町通今出川上る附近)では練貫座(ねりぬきざ)が
西軍本陣跡の大宮あたりでは大舎人座が組織されました
そしてそれぞれが対立しながらも京の機業をリードしていきました。

16世紀になると大舎人座が将軍家直属の織物所に指定され
元亀2(1571)年には大舎人座31家のうち6家が宮廷装束を
製織する御寮織物司(ごりょうおりものつかさ)に任じられました
これ以降,この6家を中心として西陣の機業は発展していきました

その6家とは格式高く家筋の正しい井関(紋屋)
和久田(絹屋、後三上氏桝屋また紋屋)、小島(後井関氏紋屋)
中西(織屋)、階取(錦屋、後三上氏)、久松(織物屋)
の六人衆を指しています
勅許により内蔵寮の織部司に補せられ各家を御織殿と称しました
由来


西陣・西陣織の起源がなんとなく解って頂けたでしょうか?
応仁の乱以後に職人や仕事場を整理・統合されて
宮廷装束が西陣織のご先祖さんやったわけですね

その後も幾多の苦難の連続で現在に至ってます
そのお話しは、また明日!

では「京(今日)の一曲」は
着物といえば!松平健さんで「 マツケンサンバ」をお聴きください


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Posted by 西陣整体 at 23:19 │私の西陣